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BOOK REVIEW vol.3

今月の本 vol.3:生き抜くためのウジャンジャ

失敗しない買い物と成功も失敗もないような買い物。商売におけるずる賢さが映すもの。

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都市を生きぬくための狡知 タンザニアの零細商人マチンガの民族誌』小川さやか(世界文化社)
「その日暮らし」の人類学 もう一つの資本主義経済』小川さやか(光文社新書)
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 マサキマツシマやヴィヴィアン・ウエストウッドを着て、二ヶ月に一回の雑誌「MR highfashion」を心待ちにしていた、恥ずかしすぎる高校時代(いま「MR」を調べたら創刊号の表紙が長嶋茂雄で自分が持ってるモード誌のイメージとの乖離に涙した)。モードに捧げたあの時代はまだまだ欲しい情報がすぐ手に入らず、「MR」の巻末ランウェイ写真を眺めてはかっこよさに驚き、後で値段を見つけてまた驚き、買うのを諦めていた日々が懐かしい。買えずともマメにお店に行って顔を覚えてもらい、最新のコレクション情報を絵型の発注シートやランウェイのビデオで見せてもらっていた(必死の形相)。面と向かって情報を求めなければ何も入ってこず、遠くから取り寄せることもできなかったあの時代。店員さんと一対一で相談しながら悩みに悩み、時に褒め言葉に騙されながら選んだ一着も、家に帰っていろいろな持ち服と合わせても上手く着こなせないことに何度絶望したことか。絶望しつつも当時は楽しくて仕方なかったし、今になってあの無駄遣いともいえる買い物は自分の価値観の大きな部分を担っていることにハッとしたりする。

 そしていまではどこでも最新のファッション情報が確認できるし、どこにいても服が買えるネット通販のゾゾタウンを運営するスタートトゥデイが、株式時価総額で1兆円を超えた。アパレルにおけるECの伸び率は急激ではないようだけれど確実に伸びている。2016年のアパレル全商取引におけるEC率は約11%(10.93%)で約14兆円(前年は約9%)。
 ゾゾのようなBtoCに限らず、CtoC市場もメルカリのインパクトもあり急速に拡大している。ネットオークション市場は1兆849億で、うちCtoCに絞ると約3458億。同様にメルカリのようなCtoCのフリマアプリは2012年の登場からわずか4年(2016年)で3052億円にまで伸び、ここからさらなる伸びが期待されている
 一方でゾゾのツケ払いサービスに追い込まれる若者たちが出現し、ねじれた創造力とネタ文化によってメルカリに現金や領収書の出品という裏技を生み出させるに到る。経済力を超えた買い物を誘い、さらにそれを違う(間違った)方向で後押しする危険なスパイラル。その場しのぎのお金のやり取りの生々しさに、怖さと情けなさを感じつつも、生きた人間の姿を見た気もした。

 アフリカのタンザニアに、マチンガと呼ばれる古着を路上販売する都市零細商人たちがいる。『都市を生きぬくための狡知』は、文化人類学者の小川さやかが自らマチンガとなって参与観察し、“ウジャンジャ(狡知)”と呼ばれるずる賢い知恵を鍵に、日々古着を売る商世界や都市生活者として貧困を生きる彼らのあり方を、ドキュメンタリーのように描き出したワクワクする研究書だ。合理的で不確実をなるべく避ける我々の生き方と真逆のような、その場しのぎのお金のやりとりばかりが行われるマチンガとウジャンジャは非常に興味深い。彼ら(マチンガの多くは男性)は、国家による記録の外にある経済圏“インフォーマルセクター”で日々商取引をしているのだけれど、小川は路上商人としてのマチンガについて、“第一に、アフリカ諸都市の路上空間は、国家経済破綻や不適切な社会経済制度に起因して生み出された経済的弱者の生存の場であり、マチンガは路上商売以外に選択肢をもたない「脆弱」な人びとである。第二に、路上空間は、抑圧的な社会経済秩序に対する闘争のアリーナであり、マチンガは国家権力に対して異議申し立てをおこなう「抵抗する」人びとである。第三に、路上空間は異なる市民がそれぞれの権利を折衝する公共空間であり、マチンガは権利を主張する「周縁化された」人びとである”と整理する。一方でこれまでの研究では、零細企業家としての商人は戦略的で合理的な創意工夫を行う人間として、西洋近代的な経済人に近いものとして描かれがちであるのに対し、小川がタンザニアで見たマチンガたちは、「相互扶助や富の再分配と市場競争、背信や裏切りと友情、不合理な言動と計算高い戦略といった、相反する実践が同時に観察される」存在であり、戦略的というよりも目の前の窮地を突発的、即興的に生きていた。騙し、騙されるような不確実性、不確定性な都市社会において場当たり的に現れる彼らのずる賢さを、彼らはウジャンジャと呼ぶ。

 マチンガの売り物である古着は、インド・パキスタン系の卸売商からアフリカ系の中間卸売商を経て、小売商へとやってくる。小売商は中間卸売商から“マリ・カウリ”と呼ばれる委託的な掛け売りによって商品を仕入れ、売れた分だけ後に清算する。小売商は何も売ることが出来ず、その日のご飯にさえ苦しい時は中間卸商に生きるためのお金を“たかる”ことが許されている。さらに、時に小売商は意図的にサボタージュし、時に持ち逃げにまで及ぶこともある。しかし、中間卸売商は持ち逃げした人が時間を置いてまた現れても、何もなかったのかのように新たに取引に応じるという。これは、商売はある程度運の問題であり、さらに不確実な社会を生きるマチンガへのそもそもの共感が中間卸売商にあり、小売商に対して能力主義で判断しないということによっている。能力主義ではなく、必要なのは生き抜くための“ウジャンジャ=ずる賢さ”をお互いが持つことなのだ。ウジャンジャによって、裏切りと騙し合い、信頼と援助など相反するような実践が「その時その場で余裕のない者/不満を抱えている者へと,マージンを引いた商品・カネ・支援を回していくことで,状況対応的に諸アクター間の必要性を埋め合わせするエージェントとして利益を稼」ぐことで、マチンガたちの経済は成り立っている。

 「日々の商交渉において互いの反応を見極めながら、機を捉えて自己の領域に他者を引きずり込んだり、突き放したりする綱引きのうえで、互いの力関係や親密性、依存と自律といったバランスを操作していくやり方は、話し合いによって、合意を形成する方法に比べて不確かなものであろう。しかし、マチンガは、その場その場の駆け引きのゆくえを開かれたものにしながら、目の前の他者と駆け引きする即時的な実践を繰り返していくことで、不安定な経済状況の変化に、柔軟に対応できているのではないだろうか。ひとりの商人はつぎのように述べた。

 生きていくためのウジャンジャというのは、相手の心理をすばやく読んでうまくやってのけることだ。でも、この賢さには教科書があるわけではなく、人生経験によってみんなばらばらなんだ。みんな自分のやり方でやるから、他人が腹の中で何を考えているかなんて本当のところはわからないのさ……でもそれはオレたちのあいだに信頼がないことを意味しない。オレたちはお互いを尊重しあっている。だから、(他人の行為が)わからないことを知っているし、わからなくても平気だ。いや、わからないからこそ、オレたちはうまくやっていけるんだ。

 ここには、たとえば、制度化や組織化によって、互いの行為を予測可能なものにし、経済行為や社会関係における不確実性を除去していくような方向とは異なる、他者とのつながり方をみることができる。それは、他者の他者性を認めー他者はわからないことを認めー、経済行為や社会関係に付随する不確実性そのものを、他者とともに生きていくための資源に転換する方法にほかならない。」

 マチンガたちは、「その日を生きぬいていけるようなしくみー商世界—を築いている」のであり、「打算的で感情的である目の前の他者に、同じく打算的であり感情的である、いまの自分の可能性を賭けてみることを、そのリスクとともに引き受けるという方向にほかならない」「人間相互のかかわりあいに賭けつづける人びとが、都市世界の不確実性、自己の過剰性、他者の異質性、それら自体を生きぬくための資源とし、活用していくことで成立している商世 界を」ウジャンジャ・エコノミーと呼ぶのだ。

 「都市世界の不確実性、自己の過剰性、他者の異質性」は、かつてファッションの潮流が東京のストリートから発生していた頃にも見られた要素のようにも思う(質は違えども)。タンザニアではウジャンジャがそうした状況を生き抜く狡知としてあったのであれば、かつての日本にもウジャンジャがあったのだろうか。そしていま、それらは何かしら形を変えてでも存在しているだろうか。いま日本で服を買う時、なるべく失敗しないようWEARでコーディネートをチェックし、ゾゾタウンの商品写真や着用例を見て、さらにネットでもっと安いところはないかセール中ではないかなどを探すと聞いたことがある(いま中高生ならきっと自分もやってる)。失敗しないという確実性こそ高まるのかもしれないが、そこには服を着た自分もいなければ販売員という他者もいない。対面販売で服を買うのは面倒くさいし、恥ずかしいし、オススメされて断りきれず失敗することもあるかもしれない(過去やらかした)。予測可能で単線的なショッピングだけじゃなく、突然の出会いを捉え、「その時々に可能な行為には何でも挑戦する大胆さを生み出す(『「その日暮らし」の人類学』)」不確実で不安定なショッピングも、時には様々な状況を生き抜くための経験になるのかもしれない(個人的には、かつての大胆な挑戦による成功と失敗がいまの仕事に生きている)。

 著者のツイッターを覗いていたら、こんなツイートがあった。

 インスタグラマーが、依頼された撮影でご飯の写真を仕事している風にかっこよく見せるべくマックブックを置き、演出する洋書を用意している様子をこの前テレビで見た。それは仕事での撮影ではあるが、インスタグラマーを目指す人が日常をオシャレに偽装することによって仕事を得て、普段はカップラーメンばっかり食べていたら、それはウジャンジャなのかもしれない。そういうオシャレな画やステマへの警戒心ばかりが育ってしまったけれど、カップラーメンを食べる生活もオシャレに偽装してくれていたらうっかり信じてしまいそう。