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BOOK REVIEW vol.7

今月の本 vol.7:KEEP WARM 受け身の力

死んで冷たくなる前に思い出す暖かさのありかのこと

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「聴く」ことの力 – 臨床哲学試論』鷲田清一(阪急コミュニケーションズ)
野の花の入院案内』徳永進(講談社)
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験すのではなく、聴くということ
 暖かったものがだんだん冷めていくことがある。というか普通はそういうもんである。夫妻ともに友人であった夫婦が離婚するという。わかる部分、納得できない部分が入り混じっているが、その夫婦には妻が夫を“験す”ような関係が垣間見えていた。妻が望んでいること、よいと思っていることをやれているかどうか、やって当然、やらなければ苦言を呈させれる。パートナーは元々他人である。結婚したって他人である。自分の思うようにいかないことが出てくるのはごく自然なことだ。それを、正解、不正解のように判断をしていくというのはちょっとクール過ぎる気がしていた。もっと曖昧な答えだって自分の知識外の正解だって、そして失敗も間違いもあるわけで、暖かな目で見てもよかったのではと友人としてはやはり残念な気持ちがある(見てたけど、もう無理ということなのだろうけど)。とはいえ、こちらの知らないこともわからないこともたくさんあるはずなのだから、まずは見守るしかない。

ホスピタリティ – わたしがわたしであることの根拠を与えてくれるもの
 他者を受け入れること、それによって自分という存在が変化していくことによるホスピタリティという概念とケアという場を通して、個の存在のかけがえのなさを示す哲学者鷲田清一の『「聴く」ことの力 – 臨床哲学試論』を、遡ってその夫婦に渡せていたらと今さらながらに思う。

 哲学を、哲学する人間の内部で完結するものとせず、人と人が接する“他者との関係という場に置き直し”、臨床の場における哲学のあり方を検討した本書は、“聴く”ということを通して、生きて変化する人間同士の関係性を描き出す。鷲田は、“聴くということ”の哲学ではなく、“聴くこと”の哲学を探求していく。“聴くことの力”とは、人間にとって本質的な“受動や需要がもつポジティブな力”であり、“聴くことの哲学”とは、ある他者の伴走者としての営み、自分を中心に置かない思考である。“聴く”ことの現場が臨床であり、臨床とは特定の誰かと誰かが関係する場であり、ある他者を前にして自分が変えられる経験の場でもある。
 そして臨床は、その言葉の通りキュアとケアが行われる “苦しみの場所”でもある。キュアはある特定の原因に対して処置を施す役割と職業として行われるが、心の問題でもあるケアは、職業的な役割であると同時にホスピタブルな特定の人間同士のやりとりでなければならない。それはなぜか。特定の人間同士として関係すること、そして自分たちのルールや掟よりも相手の存在を優先し、自分という存在を揺らすような絆こそ鷲田が呼ぶホスピタリティであり、ホスピタリティはケアの現場には欠かせないからだ。なぜ特定の人同士が関わり、自分を変えるようなホスピタリティが、ケアの場に欠かせないのか。そのホスピタリティが、世界を自分視点で見る“感受性への抵抗”であり、名を持った特定の誰かに呼ばれ、自分という存在の固有性もしくは“特異性(根源的な単数性=シンギュラリティ)”を与えることができるからだ。つまり、ホスピタリティが、わたしがわたしであることの根拠を与えてくれる。

「あの日常をもう一回したい」という、死を悟った人の願い
 こうしたケアが現実に日々行われているのがホスピスである。鳥取空港から車で15分、鳥取市の「野の花診療所」はホスピスケアのある有床診療所だ。所長で医師の徳永進は、2001年から毎年およそ90人が亡くなる現場で死を見(診)続けてきた。『野の花の入院案内』には、徳永が経験してきたたくさんの死とそこに至る故人/個人の物語が語られる。大げさなライフヒストリーではない。死を覚悟し、最後に訪れる場所であるホスピス。“あの日常をもう一回したい。死が来ることを知った人が共通して語ることはそれなんです。病んで終わっていく自分であることは承知している。でも、そうではない自分を、いきいきとした自分をもう一度感じたい”と野の花に来る人は訴えるという。そしてそれはたいてい難しくなく実現できることだったりするのだそうだ。ただ目の前の床に立ちたい、スーパーで買い物をして夫にご飯をつくりたい、そんなありふれた今日を明日も生きられること。それが人間に共通する、“生きていくときの希望”なのだろうと徳永は考えている。

死を敬いながら、いい死に方をしてもらう
 “なんとかして死を、「あってはならないもの」としてというよりも「あるもの」として、もう少しやわらかく自分に受けとめながら、直面してる人にもっとバックアップすること”をしたいと徳永はいう。目の前の人間=患者が直面している現実を否定せず、受け入れ丁寧に着陸させてあげること。天に召される人を着陸というのも方向が逆だが、徳永は着陸という言葉を使う。
 “死を特別なものとしないところにありながら、でも尊び、敬意をもち、できることをさせてもらうと、自分の生命に全部還ってきて、支えてくれる”というように、徳永が語る亡くなった人の物語にはまったく湿っぽさがなく、ちゃんと亡くなることができてよかったとこちらが思える、カラッとしたやさしさと暖かさがある。
 徳永は、自分の論理、医者の論理を振りかざさず、相手のよって変化する自分を受け入れている。正しさを疑い、“かならずしも”という曖昧な言葉の確かさを信じているが、時に医療者の過剰な論理が患者に対して「自然の摂理だから仕方がない」というようなメッセージを帯びてしまうことがある。それは「病室のホメオスターシス(=自然治癒力)」つくりを阻害し、結果としてもっとやってあげればよかった、という後悔が残るのだという。そうしたことを解決するコツは、患者さんがいる“その場にいること”、そして“思いがけない出来事に出会うこと”、さらに出来事に対してすぐ動き、やりきること。それによって動くこころは“死であっても、おもしろいな、すごいなと思える”。亡くなったあとも、たくさんさせてもらったという言葉となって看護師から出てくる。

「おのれの端緒がたえず更新されていく経験」
 鷲田は、メルロ=ポンティが哲学を定義した「おのれの端緒がたえず更新されていく経験」という言葉を何度も引用している。論理一貫でないと自分がないと言われ、自分の主張を通すことがよいことであるとされ、声の大きい人の意見が通ってしまうことが多いけれど、他者を通して“他者の他者”として自分を理解することの可塑性こそが、とても人間らしいのではないだろうか。他者と対立する硬くソリッドで冷ややかな人間ではなく、他者と交わる柔らかくリキッドで暖かい人間像を、鷲田の臨床哲学と野の花によるホスピス現場から見えてきた。

1日1日大事だなとけっこう当然の答え
 死んで冷たくなる前にもう自分が一度経験したいと思う日常はどんなものだろうか。いつ病気が発見されるかもわからない。離婚してるかもしれないし、子どもと会えなくなっているかもしれない。恐すぎる。日常を過ごせなくなる前の日常は、今まさに生きている瞬間かもしれないことを考えたら、1日1日大事だなとけっこう当然の答えになってしまうのだが、いつも気持ちをキープウォームし続けるのは難儀なので、なるべく多くのことで気持ちが暖かくなるように柔らかく変化できる準備運動だけはしておこう。まずはダイエットの脂肪燃焼からはじめたい。